生じてはいけない言葉
「店長大変です。ダブルブッキングになりました」
「ええっ?!」
ダブルブッキング。その言葉を聞いただけで目の前が暗くなり、ずっしりと心が重くなりました。あってはならない、生じてはいけない言葉だからです。その状況を私に伝えたスタッフの顔も真っ青でした。
「ご予約の変更があって、その記入漏れが原因のようです」
「いつのご予約ですか?」
「それが・・・、今日の20時です」
「お客様のメニューは?」
「ペアのお客様で、お2人とももみほぐしの60分です」
「ペアですか?」
「ご夫婦でちょくちょくお見えになられる大山様(仮称)です」
私も何度か施術したことがありました。いつも早めに4~5日くらい前から夫婦で一緒にご予約されるお客様です。しかしその時はペアであることに落胆せざるを得ませんでした。1人ならまだしも、2人では対処が難しいからです。
予約を意味するブッキング(booking)が重なることから、言葉どおり、ダブルブッキングとは二重に予約を受けてしまうことです。対処できるなら何も気に病むことはありません。しかしホテルの部屋や飛行機の座席などと同じように、本来はシングルであるべき予約が二重になることから問題なのです。
責任者としての覚悟
私のサロンでも、日頃からお客様からのご予約には細心の注意を払っています。セラピストもベテランが多く、配慮意識が高いので普通ならミスがありません。施術予約に対するチェックも行っています。
それでも年に1件か、多い時で2~3件くらいダブルブッキングが発生することがあります。セラピストやスタッフの思い込みやふとした勘違いの連鎖、時には思いもよらない偶然がミスを引き起こします。完璧を求めたくても、人が行なうことに絶対はありえません。
「店長、どうしましょう。非番のAさんやBさんにすぐ連絡を取りますか?」
「う~ん。いずれにせよ、今からでは間に合いそうもないな」
この件で休日のセラピストを騒がせるのはどうかと気が引けました。お客様は確かに大切ですが、お店にとってセラピストはもっと大切だという信条を抱いているからです。だからこそセラピストは、お店に代わってよりお客様を大切にしてくれることにも結びつきます。
「仕方ありません。私から謝罪し、予約の日取りを変えて頂くよう大山様に連絡をとってみましょう」
「はい。よろしくお願いします」
スタッフの表情はパッと明るくなりました。
後は任せなさい、こういったケースに対処してこそ責任者なのだ、と自分に言い聞かせました。私は覚悟を決めました。
意気揚々のオーラ
できるならご来店前に連絡をつけたい。その思いとは裏腹に、結局ダブルブッキングを生じた大山様との連絡はつきませんでした。
時計が20時のちょうど5分前を指した時、駐車場に車を停め、和気あいあいと笑顔の2人がお店のドアに向かってくる姿が見えました。大山様だ。その当時私がいたサロンは、ご来店されるお客様の様子がお迎えする店内から見てとれるレイアウトだったのです。
見るからにさっぱりとした2人から湯上りの雰囲気が見て取れました。「さあ、これから気持ちよく揉んでもらうぞ」といった意気込みのようなものが、その表情や足取りからオーラのように発散していたのです。これはやばい、本当に申し訳ない、と直感しました。
(余計なことは一切言わないでおこう。ただただ素直に謝ろう)
その方が効果的かも知れない、という打算が働いたわけではありません。意気揚々とご来店されたお客様への申し訳のなさを痛感し、純粋にそうするしかない、そうすべきだという衝動に駆られたのです。
謝罪の言葉
丁寧に大山様を待合のソファに案内し、床に両ひざをつけ、2人をしっかり見つめながら話しを切り出しました。
「大山様、せっかくご夫婦でご来店いただき、これからいよいよという矢先に大変申し上げにくいのですが・・・」
何事が始まったのかと夫妻は目を白黒させていました。
「実は当方の手違いによって、本日の大山様の施術をお受けすることができなくなりました」 「・・・」
「誠に申し訳ございません」
絞るような声で謝罪し、深く2人に頭を下げました。
「どういうことですか。楽しみにして来たのに!」
すぐに夫人が声を荒げて怒り出しました。
「返す言葉はございません。まったくもって当方の責任です」
その時、ご主人が夫人を制するように手を動かしたのが見えました。
(許してあげなさい。こうやって誠実に謝ってくれているではないか)
口に出さなくても、その動作でそう語っているのがはっきりと分かりました。夫人もすぐに口をつぐみ、幾分気を取り直してくれたようでした。
ダブルブッキングの収束
謝罪を受け入れて頂けたことに安堵し、私はあらかじめ用意していた「無料ご招待券」2枚を差し出しました。その券は60分の施術メニューが無料となるものです。特別な事由が生じた際に使用するためお店にストックされていたものですが、その日奇しくも、ちょうど2枚が残っていたのです。
「これで償えるとは思いませんが・・・、申し訳ございません。お受け取りください」
60分という、ダブルブッキングを生じた今回のメニュー時間に合っていたのは幸いでした。
2人は受け取ってくださいました。もし怒り心頭であったならば、そんな紙切れには何の威力もありません。ダブルブッキングはお店の信用問題です。同じメニューを無料提供したからといって、本来は許されることではないのです。
「この場であらためてご予約なさいますか。このようなことが今後ないよう、心して対応いたします」
「できないのなら仕方ないですね。今日は帰ります」
ご主人が残念そうにそうつぶやき、夫人もゆっくりうなずきました。
さすがにその場でご予約はされませんでした。足取りも重そうに帰られる2人を外まで見送りました。ダブルブッキングが収束したことでホッとしましたが、本当に申し訳なかったという気持ちが尾を引きました。
先着優先のマナー
お客様からのご予約に関しては、先に予約された方を優先しなくてはなりません。これが「先着優先のマナー」です。メニューの時間、料金、指名の有無などで差別してしまうと接客サービスの公平性が損なわれます。
たとえば30分メニューのお客様Aと90分メニューのお客様Bがダブルブッキングした場合、先にご予約されていたのがお客様Aであれば、必ずそちらを優先しなくてはなりません。
つい料金が高いことでお店が得をし、セラピストもまた施術時間が増えるからといってお客様Bを優先するのはマナー違反です。その時はそれで一時的にお店やセラピストは得をするかも知れませんが、実は失うものの大きさに気づいていないと言えるでしょう。
大山様は予約を変更されました。これはそれまでの予約をキャンセルし、新たな予約をしたことになります。そしてその時点で先着のお客様Xがおられたことでダブルブッキングが生じたのです。たとえミスはお店側にあったとしても、お客様Xが先着優先されるのです。
先着優先のマナーで例外となるのは「対応の可否」です。お客様Aの30分が実は施術者限定の特殊メニューであり、お客様Bの90分が一般メニューであるようなケースです。お店としては、お客様Aを優先したとしてもその対応ができません。もしくは難しいということであれば、対応できるお客様Bを選択しても許されるのではないでしょうか。
予約の重み
大山様から後日再びご予約が入りました。いつしか従来どおりの状況に戻りました。その1年後くらいに同店はクローズすることになり、現在のサロンに移転しましたがご夫婦で1度だけ今の店にも足を運んでくださいました。
帰り際にご主人が声をかけてくださいました。
「かなり遠くなったので、ここにはもう来られません」
「だとしたら今日は・・・。そうですか。わざわざありがとうございます」
私にとって親しみを抱くお客は「様」から「さん」に敬称がアップします。
「大山さん、どうかお元気で・・・」
「はい。皆さんも元気に頑張ってください」
大山様へのダブルブッキングは、私にとって「予約の重み」を強く認識させる事件でした。完璧を求めたくても、人が行なうことに絶対はありえません。しかし、それでも完璧を求め、ミスを起こさないよう努めなくてはなりません。予約にはその重みがあります。
「どういうお客様なのですか?」
様子を見ていて不思議に思われたのか、セラピストの1人に尋ねられました。
「前の店のお客さんです」
私はとても澄んだ気持ちに包まれながら、それだけを明かしました。
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サロンがどれだけ注意していても1度や2度は生じてしまうであろうこの問題。ダブルブッキングは読者の皆さまにも様々な経験があるのではないでしょうか。いずれも著者の個人的な見解です。長文をお読みいただき、ありがとうございました。
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