会話による癒やし
「店長、私たちの仕事はお客様を癒やすことですよね?」
女性セラピストの矢田宏美(仮名)さんから唐突にそう尋ねられた時、彼女がなぜそんな質問をするのか分かりませんでした。しかし、すぐに頭に浮かんだのは、私たちの働く「リラクゼーションさくら」というお店の名前でした。
治療ではなくリラクゼーション。お客様の疲れた身体を優しくほぐし、仕事や家事などに伴うストレスを解消する。私たちの仕事が「癒やし」を本分とすることに疑いはありません。
「矢田さん、そのとおりです。癒やしだと思います」
しかし彼女の迷いは、少し他のところにあったのです。

「だとしたら、お客様との会話で相手を癒やすのも構いませんよね?」
「お客様との・・・会話ですか?」
「私は皆さんと比べて技術も上手くないし、せめてその分、会話でカバーできたらと思います」
質問の意図は飲み込めたものの、少し返事に悩みました。お客様との会話による「癒やし」にピンと来なかったからです。
私自身はあまりお客様と会話しません。決して苦手ではありませんが、得意とも言えません。会話で相手を癒やす術など持ち合わせていません。
彼女の真剣な眼差しに引き込まれながら、だからこそ会話でお客様を癒やせるのは素晴らしいことだと思えました。
「矢田さんがそう考えるのなら、それで良いと思います。自信を持って施術でも会話でも、お客様を癒して差し上げてください」
「ありがとう!」
嬉しそうに彼女は笑顔を見せました。お客様との会話について悩んでいたようです。店長である私に納得してもらえたことで安堵したのかも知れません。
ほぐしと癒やし
当時のサロンは、エピソード「独りサロン」を終えた後に移動したお店でした。そのお店で矢田宏美さんと、すでに本ブログにも登場している杉田かおるさんの二人は特に仲がよく、女性セラピストの中心的な存在でした。
2人と一緒に仕事をする機会は多く、私のゆったりとしたデリム(デリバレイト・マッサージ)の手技は、少しずつ彼女たちの関心を引いたようでした。私にしてみれば、ほぐしの技術に長けていたわけでもなく、ただ自分の身体への負担も少ない癒やし揉みしかできなかっただけのことです。
「そういえぱ一番最初に習ったときには、店長の様にゆっくりした揉み方でした」
「1-2-3-4で力を入れて、5-6-7-8でゆっくり抜くんだよね」
「私たちって知らず知らずのうちに、小忙しい揉み方になっていた気がします」
「店長の揉み方を見ていると本当に癒やしって感じがする」

会話でお客様を癒やす、という矢田さんの言葉がスパイスのように私を刺激し、あらためて「癒やし」に真剣だったことも功を奏したようです。施術態度が2人に好意的に受け入れられ、後に杉田さんとは一緒に施術研究をする仲にもなりました。
ほぐし揉みが整体系の手技を多く取り入れているのに対し、癒やし揉みはリラクゼーションそのものです。ほとんどのサロンで、セラピストの多くは、ほぐし揉みの手技で活躍していると感じました。
当時は、癒やし揉みの方が下位にあると私は考えていました。自分では満足にほぐせないので、せめて気持ち良い施術を心がけようというのが発端です。今では、ほぐしと癒やしのどちらが優位であるかは一概に決められないと思っています。
矢田マジック
ある日、本職の鍼灸師でありながら同じサロンで働く男性セラピストの山本雄二さん(仮名)は矢田さんについて私にこう話してくれました。
「矢田さんはすごい。この前など3人続けて彼女指名の電話でしたよ」
「確かに・・・。最近はほとんど指名客で埋まりますね」
「店長は矢田さんと顧客との会話を聞いたことがありますか?」
「個室での施術が多いこともあり、あまり聞きませんね」
サロンにはベッドが6台並んだ共用の施術スペースの他、オイルマッサージにも使われる個室が3つありました。矢田さんは当時、一般のお客様には共用スペースを使うものの、個人指名で来店頻度の高い自分の常連客には個室を使うことが増えていました。
そして彼女は事前に、「よく話すお客様なので他に迷惑とならないよう、個室が空いていれば使ってもいいですか」と、きちんと私に許可を得る人でした。

彼からの話に戻しましょう。
「立ち聞きするつもりはなかったのですが、個室の近くで何度か耳にしました」
「何か変なことでもしていましたか?」
「さすがにそれはありませんが・・・」
目に触れられない個室です。男2人なので変な想像を巡らせる余地もなくはありません。しかし、彼女がそんな女性でないことは分かっています。山本さんの次の一言はとてもインパクトのあるものでした。
「彼女の会話はすごい。あれは矢田マジックですね」
会話への質問
矢田マジックがどんな内容の話し方なのか、興味は湧きましたが知る由もありません。山本さんにも詳しく聞きませんでした。代わりに、彼が褒めていたことを後日彼女に伝えました。
「矢田さん、あなたとお客様との会話に山本さんが驚いていましたよ」
「別に、特別なことはありません」
「会話する上で、何か気をつけていることはありますか」
「前にも話したとおり、会話でもお客様を癒やすように心がけています」

ほとんど会話をしない私にとって、それ以上詮索する気はありません。ただ質問したいことがあったので尋ねました。
「この仕事に就くセラピストにとって、お客様との会話にはどのようなよい点があるのでしょうか」
メリットや利点、長所といった単語ではなく、よい点という聞き方をしたのはその方が彼女に伝わりやすい気がしたからです。
私が教えるなどとんでもない、といった表情が彼女から伺えました。
「矢田さんの場合はどうなのか、でいいですから教えてもらえませんか」
様々なメリット
「自分がどんな人かを分かってもらえます。こちらも、お客様がどんな人だか分かるし・・・」
「ちょっとした会話だけで、相手を見抜けるものなのですか?」
見抜く、という私の表現に彼女は少し怪訝な顔をしました。もとより、そんなことを意図して会話をしていなかったはずです。
「親しくなって、あれこれ話すようになるとお客様も地が出てきます。私たち女性は、意外に気づきますよ」
彼女は会話のよい点として、相互の理解が深まり、ひいては信頼関係の形成に役立つことを上げてくれました。それは会話に関わるシチュエーションを含むものでした。
「本当は話好きなのに、他のお客様が近くにおられると必ず静かにしてくれる人がいます。口先だけでなく、マナーのしっかりした、優しくて思いやりのある方だと分かります」
施術負担の軽減という効果も口にしました。
「長時間の施術のときには、話が入ることによって、あまり長く感じずにいられます」

しかし私が一番感心したよい点は、次のものでした。
「お客様がいろいろと話してくれる内容には、私の知らないことや、役に立つことも多いので、勉強になります」
勉強になるとはどういうことだろう。顧客との会話により世相や景気、社会のことを学ぶのだろうか?
いや、それはビジネスマンの感覚だ。主婦ならば子育ての知恵や家族との絆、あるいは美容や健康の秘訣、それとも料理のレシピといったもの?
いずれにせよ、お客様との会話がセラピストの成長や勉強にも結びつくという意見は、私にとって新鮮な驚きでした。そしてセラピストの成長に結びつくのであるなら、他のお客様に迷惑とならない限り、会話は制限すべき事柄ではないと悟りました。
人としての謙虚さ
矢田さんの言葉でこれも印象的な一言を思い出します。夏の暑い頃の話です。
「店長、今日お店に来る時、道路工事の現場で汗を拭いながら車の誘導をしてくれる人が居ました・・・」
「?」
「見て思ったのです」
「・・・何をですか?」
「私たちの仕事って、エアコンのきいた涼しい部屋でやれます。ゆったりと音楽(BGM)を聞きながらやれます。・・・何てありがたいのだろう」

最後に連なる感謝の言葉は、半ば独り言になっていました。
「確かにそうですね」
私は相づちを打ちました。というか、打たざるを得ない雰囲気に包まれたのです。彼女にはそれ以外にも何度か、仕事やお店に対する彼女自身の謙虚さを感じ取れる機会がありました。
セラピストとしての謙虚さは、すなわち人としてのそれです。不平や不満を口にするセラピストは多いのですが、彼女は感謝を口にします。数少ない、尊ぶべき人格の持ち主だと感じました。
将来の夢
「まだ中学生の娘ですが、将来美容師になりたいと言っています。娘がやる美容院の片隅にベッドを置いて、疲れたお客様を私がほぐすんです」
そう語ってくれたくれたこともありました。
「それは素晴らしい」
「この仕事を続けていく上での、将来の夢です」
「そうですか。頑張ってください!」
もしその時を迎え、私にできることがあったなら少しでも彼女の力になりたい。素直にそう思いました。

施術中の会話の是非について私に確認し、個室ルームの使用もきちんと許可を取る。謙虚さと感謝の気持ちを持ち合わせ、他人への配慮意識を忘れない人間が受け入れられない訳がありません。それはセラピストとしての成長にも結びつきます。
矢田マジックとは結局のところ、そういった彼女の人間的な魅力のなせる技ではないかと思います。
プラス、技術
矢田さんはメキメキと力をつけ、個人指名数でトップの杉田さんを超える日が出てくるほどでした。どちらがサロンのNo1なのか、甲乙をつけがたいほど人気のセラピストになったのです。そんな彼女の施術を受けたことがあります。
「私は皆さんと比べて技術も上手くないし、せめてその分、会話でカバーできたらと思います」
かってのその言葉が謙遜としか聞こえないほど、技術的にも素晴らしいものがありました。私は顧客の立場では尚さら話したりはしません。ほぼ無言の60分間です。

(しっかり技術が伴っている)
十分な満足感を覚えました。決して会話だけではありませんでした。プラス、技術という確かな裏付けが矢田さんの人気を支えていたのです。
エピローグ
実力あるセラピストが独立していくのは、この業界のサロン経営において半ば当然のプロセスなのかも知れません。矢田さんと杉田さんはその後、仲良く一緒に新たなステージへと羽ばたいて行くことになります。
「独立」というテーマは、いずれ当ブログもみAで語りたいと思います。
一方、トレーナーとして本格的な施術指導に携わるようになった私は、いつしか会話による癒やしに否定的な立場をとるようになります。でも、それはわざとです。
「当店は会話でお客様を癒やす店ではありません。あくまでも施術で癒やすお店です」
「自分が異性であることから派生する“何か”で指名を取るよりかは、技術で指名を取れるように目指してください。そうでないと、その指名も長くは続きません」

そんな発言をしてきました。技術を教えるトレーナーとしては、そう伝えるべきなのです。
しかし、会話でもお客様を癒せる矢田宏美(仮名)というセラピストを私は知っています。そして彼女は、技術においてもお客様を癒やせるセラピストでした。
実のところは技術だけではなく、そのセラピストの人間性を含めた全てがからみあってお客様からの信頼に結びつくのだと思います。会話はセラピストにとって、その一つのツールだと言えるでしょう。
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顧客との個人的な情報交換は禁止していても、会話は禁止しないお店が一般的なようです。ただしコロナウイルス感染予防の観点から、サロンによっては余分な会話を慎む風潮に転じるやも知れません。会話というテーマでWatchしました。著者の個人的な見解です。長文をお読みいただき、ありがとうございました。