実技確認

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  実技確認とは経験者採用時に行なわれる技能審査のことです。

誠実な経験者

 サロンの面接に訪れた70歳の男性Nさんは、定年退職の後、60歳から新たにこの業界に足を踏み入れた経歴の持ち主でした。もみほぐしサロンで初めて技術を学び、半年ほど経った頃、ある思いを強く抱いたそうです。

「揉んでほぐすだけではダメだ。痛みを治せるようになりたい。そう思いました」
「何か理由があるのですか?」
「腰が痛い、膝が痛いといったお客の声をよく聞かされました。どうせやるなら治せるほどの技術を持たないと意味がないと気付いたのです」

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 医師でも医業従事者でもない私たちが治療することはできません。喉まで出かかったその言葉を私は抑えました。定年後の人生にセラピストを選んだNさん。その「志」に水を差してはいけないと思いました。それではあまりに無作法だからです。

 彼の真摯な眼差しから誠実さを感じました。「お客様の身体の痛みを治したい」という思いは、「お客様の身体の疲れを癒したい」というそれと実は程度の差でしかないことに気づきました。本質的に両者は同じスタンスのものだと言えます。

整体のキャリア

 ほぐしだけでは自分の技量に限界がある。個人指名が取れない。そんなジレンマをNさんは感じたようです。
「お客を治したいという思いがどんどん強くなりました。それで整体の学校に2年通いました」
「ほう、そうでしたか」

 彼の話に感心しつつ、履歴書に目をやると「〇〇整体学院」と書かれていました。
「〇〇整体学院、こちらで整体の技術を学ばれたのですね」
「ええ、まぁ」
 Nさんは少し気恥ずかしそうに言葉を付け加えました。
「個人の先生がやられているところで、きちんとした学校ではありませんが・・・」

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 きちんとしたとは、按摩マッサージ指圧師や鍼灸師などの公的資格を取得するための学校ではないという意味だと分かりました。私は意見を述べました。

「最終的には個人の素養や実力に左右される仕事です。優れた先生のもとで技術を学べたなら学校がどうとか気にする必要はありませんよ」
「店長さん、ありがとうございます」
 彼は私を役職で呼び、嬉しそうにうなずきました。

 整体学園の費用を興味本位で尋ねてみたところ、かなりの金額で驚きました。相当な先生から本格整体を学んだに違いないと、目の前の老齢のセラピストへの期待が膨らみました。

 その後Nさんは整体院での補助を経て、現在は郡部の小さな温浴施設でマッサージ師として働いているとのことでした。

実技確認

 経験者である彼の採用に際して、もう残されていることは一つしかありません。
「ではNさん、実技を確認させてもらいます」

 当サロンでは、経験者の実技は原則として2名が施術を受け、それぞれの意見を持ち寄って合否を判断することになっています。Nさんの時には、60分のもみほぐしを店長の私と副店長の杉田かおる(仮名)が受けました。彼女はテーマ「施術時間」にも登場した人物です。

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 揉み手の技能を2人の受け手が確認する理由は、判断の客観性を高めるためです。もみほぐしや足つぼに限らず、多くのリラクゼーションセラピーでは、受け手の恣意的な判断が出やすい傾向にあります。2名はできるだけ男性と女性で行うという取り決めもありました。
「最初に私が、その後小休止をはさんで、女性の杉田にも施術をお願いできますか」
「はい、わかりました」

 あらかじめ施術できる服装で面接に来てもらうようNさんには伝えてありましたが、彼は正装でした。その上で施術着を持参してきたのです。その点も好印象でした。

 施術着に着替え、ベッドを横にして、Nさんはいくぶん緊張している様でした。肩の力を抜いてください。あなたなら普段どおりで大丈夫でしょう。心の中で私はそうつぶやいていました。でも口に出せるのは合図の一言です。
「私は今からお客様です。それでは初めてください」

百聞は一揉みにしかず

 うつ伏せで、という彼の指示に従い私は身体をベッドに寝かせました。そして気づかれないよう静かに大きく鼻から息を吸い、丹田に気が溜まったのを感じてから、長くゆっくりと口から息を吐きました。わずか1回の腹式呼吸ですが、それによって全身の力を抜くことができます。揉み手の手技をきちんと受け入れ、圧をしっかり感じ取るための受け手の準備です。

 Nさんの最初の軽擦が背中に施されたとたん、違和感を覚えました。
(えっ、何、雑すぎる。それで擦っている?)

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 ひょっとして緊張のせいかも知れないと彼を思いやりながら、続く手技に意識を集中させます。しかし期待は裏切られました。

 触っているとしか感じられないもの、押してはいても力の向きが違っているもの、圧の抜き入れもバラバラで気持ち良いとは感じられません。
(これは・・・、うちでやってもらうにしても時間がかかりそうだ)

 百聞は一見にしかずという諺を思い出しました。私たちセラピストの場合には「百聞は一揉みにしかず」になることでしょう。

及第点と減点

 実技の確認であることから60分の施術は最後まで受けます。揉み手が施す手技の中で、これは良いと思われるものが最低3か所あれば採用を考えます。経験者の場合はお客様の身体に触ることには慣れているので、不出来な手技はトレーナーのアドバイスで直せば済むことが多いからです。

 Nさんの場合、際立って凄いとは言えないまでも、首への揉みは気持ち良いと感じられました。あと2か所あれば採用です。

「店長さん、それでは横向きに寝てください」
(おっ、横揉みで本領発揮か)

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 しかし、ここでも期待は裏切られました。わざわざ横向きにさせる手技とは思えなかったからです。しかも2~3分で今度は逆の横向きを求められました。あなたの手技のためにお客様の身体があるのではない。お客様の身体のためにあなたの手技があるのに。

 ちょうどその時でした。私の下半身にかかっていたタオルをきちんと被せていなかったため、反対を向いた際にタオルが腰のあたりでだぶついてシワになってしまったのです。

 揉み手のNさんは何ら気にすることなく自分の手技を続けています。受け手の私はといえば、横向きの腰の下敷きになっているタオルのシワが痛いやら気持ち悪いやらで、内心は落ち着いて施術を味わう気分ではありません。

(これはダメかも知れない・・・)
 3か所の及第点が仮に見受けられても、この配慮意識の無さは大きな減点と言わねばなりません。

お車代

 実技確認を終え、着替えを済ませたNさんに声をかけました。
「Nさん、お疲れ様でした」
「こちらこそありがとうございました」
「杉田がお客様の施術に入ってしまったので結果をすぐにお伝えできません。彼女とは今夜協議し、明日ご連絡します」
「はい、よろしくお願いします」

 私は用意していた封筒を彼に渡しました。
「これはお車代です。実技確認のためとはいえ、2時間も施術していただいたので」
「そんなものが頂けるのですか、ありがとうございます」

 当店の慣習として、実技確認を経て不採用となった経験者には「お車代」を渡していました。金額はセラピストの委託施術料とほぼ同じです。採用者にはありませんが、入店証書と入店祝金が代わりに用意されています。

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 Nさんの場合は、不採用と決まったわけではありませんが渡しました。採用になった時には祝金から減額すればよいと考えていました。

「この店の雰囲気はいいですね。できれば働きたいです」
「当店は“さくら”というサロン名からも女性のセラピストが多いのが特徴です。皆さん人気のセラピストばかりなので男性の肩身は狭いですよ」

 苦笑しながらそう答えた時、私にはハッと気づかされることがありました。

合否結果

 その夜閉店を前にして、共にNさんへの実技確認を行った杉田さんと話し合いました。私たちは応募者に対する合否の結果を出さなくてはなりません。
「今日のNさんの実技確認はどうでしたか?」
「う~ん」
 困惑の表情から、彼女も悩んでいるのが見て取れました。

「店長はどう思ったのですか?」
「質問しているのは私です。先に杉田さんからお願いします」

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「温泉地ではNさんのような揉み方が普通なのかも知れませんが・・・」
 奥歯にモノが挟まった感じでした。杉田さんは根拠のない他人の欠点を口にする人ではなかったのです。

 あれこれ意見交換した後、穏やかに杉田さんは自分の:結論を述べました。
「Nさんの施術が合う人はいるはずです。でも、うちのお客様にはちょっと合わない気がします」

 喉から手が出るほど人手は欲しい。その思いにNさんの人柄もあって私も悩みましたが、これで合否の結果が出ました。
「断りましょう。明日Nさんに連絡します」

※あと2節を加筆する予定です。未完の掲載をお許しください。

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